2018年 10月 01日 ( 1 )

歎異抄・第三章(1)

 (1)善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

(歎異抄・第三章)

 十八の本願成就して、真実の信心をいただいた人の自覚を「悪人」という。なぜ、悪人というか。煩悩を悪といい、煩悩で出来た身心を持っているから「悪人」という。信の一念に智慧をいただいて「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」(第一章)とは自分のことだとはっきりわかった。煩悩は本能だから煩悩を「断ずる」ことはできない。だから、煩悩を断じて仏になる自力の道は成就しないとはっきりわかった。成就しないとわかった人は、煩悩を「断ずる」自力の道を捨てて、煩悩を「離れる」他力の道を選ぶ。これを「自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば」と言ったのです。煩悩にすっかり縛られているから自分の心に希望を持つ。だから、自力無効となるまでが容易ではないが、仏のお心と心が通じれば「真実報土」に生まれて煩悩を離れる。煩悩を離れたことを「悪をもおそるべからず」(第一章)と言ったのです。すなわち現生不退です。

 南無阿弥陀仏 

by zenkyu3 | 2018-10-01 05:17 | 歎異抄を読む | Comments(0)