2018年 09月 30日 ( 1 )

これ近相なり

 「利行満足」とは、「また五種の門ありて、漸次に五種の功徳を成就したまえりと、知るべしと。何ものか五門。一には近門、二には大会衆門、三には宅門、四には屋門、五には園林遊戯地門なり」とのたまえり。この五種は、入出の次第の相を示現せしむ。入相の中に、初めに浄土に至るはこれ近相なり。謂わく大乗正定聚に入るは、阿耨多羅三藐三菩提に近づくなり。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 曽我量深師に教えを仰ぐ。「われわれの信心の生活、仏法の生活、ほんとうの喜びの生活、明るい生活、それを往生という。だから、ここからどかへ行くというようなものではないんでしょう。常に身は娑婆世界に居るけれども、心は娑婆世界を超越しておる。往とは超越をあらわす。「死んで浄土に往生する」というてみても、そんな証拠はどこにもない。生きているうちに証拠がなければ、死んでからの証拠など、どこにもありません。証拠は自分の生活そのものにある。自分の生活そのものが証明するのである。」

 「信心決定した生活は、心が浄土に居るという生活。身は娑婆世界におるんだけれども、心は娑婆世界に縛られておらん、と思います。自由である。自由であって、心は常に平和である。証大涅槃ということはできないけれども、涅槃に近づいておる。そうでしょう。それを近門という。だから、わたくしは、往生は現生にある、成仏は未来にある、という。往生の終着点が成仏である。それを往生即成仏という。」(曽我量深著「正信念仏偈聴記」より)

 「往生」には二義があって、即得往生を「心の往生」といい、滅度を「身の往生」という。親鸞は「正定聚不退転」と教えてくれたから、量深師はそれを受けて、十八願の本願成就を「心の往生」とした。浄土思想上、初めて親鸞がそう言ったようでもあるが、親鸞がなにか特別なことを言ったというより、臨終と往生を正しく切り離したにすぎない。仏教は無生の生であるから、死後の生を説けばまったく仏教でなくなるからです。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-09-30 05:09 | 教行信証のこころ | Comments(0)