2018年 09月 28日 ( 1 )

歎異抄・第二章(3)

 (2)親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

(歎異抄・第二章)

 (前回の続き) 親鸞は二十年の叡山の修業では信心を得られなかった。得られなかったが、法然を訪ねる頃には「総じてもって存知せざるなり」という大疑団に至っていた。日の出前が一番暗い。そういう状態で法然を尋ねた。尋ねたのは必然でしょう。だから、最後に一言、法然から「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」と言っていただくだけでよかった。法然の一言で信の一念を突破した。こんな言葉は法然から初めて聞いたわけではない。むしろ、今まで聞き飽きるほど聞いていた。しかし、機縁が熟すとはこういうことなのでしょう。だから、親鸞は生涯、法然のこの一言に感動して生きてきた。いまもそれを思い出し「よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と言い放つ。「親鸞におきては」と最初に名乗りを上げ、あなたたちは命懸けで法を聞いてきただろうかと、弟子たちに厳しく問いかけるのです。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-09-28 05:24 | 歎異抄を読む | Comments(0)