2018年 09月 27日 ( 1 )

歎異抄・第二章(2)

 (2)親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

(歎異抄・第二章)

 第二章は法然から親鸞への南無阿弥陀仏の相承を伝える重要な章です。外形的には南無阿弥陀仏の相承といいますが、内面的には師から弟子になにが伝わったのかというと、仏心が伝わった。師の仏心と弟子の仏心が互いに照らし合って、師も役目を果たせたと喜び、弟子もまたお念仏申す身にしていただいたと喜ぶ。このような師資相承がありありと感動的に、しかも親鸞の口から語られているのが第二章です。親鸞は法然との五十年も昔の邂逅を思い出しながら関東の弟子たちと対面しているのです。まるで劇の一幕を見るように感動的で、作者の筆力はすばらしい。第一章の総説を別にすれば、親鸞との出遇いをこの書の最初に持ってきた。作者がいかに大切にしてきた思い出かということがわかります。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-09-27 05:44 | 歎異抄を読む | Comments(0)