2018年 09月 23日 ( 1 )

歎異抄・第一章(5)

 (3)しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々

(歎異抄・第一章)

 次は第三節、第一章の最後です。「しかれば」は結論を示す。第一章の結論を示そうとする。「本願を信ぜんには」とは信の一念に智慧をいただけば、ということ。「他の善も要にあらず」とは乃至一念に念仏の行が確立した。そして、「悪をもおそるべからず」とは現生不退の生活の内面を端的に表現する。本当にすばらしい言葉です。すなわち、悪とは煩悩のことです。われらは煩悩に完全に支配され、煩悩と一体化し、煩悩を自分の心として生きている。だから、煩悩を捨てるのは自分を捨てることだし、自分を捨てるのは死ぬことと同じだ。だから、信の一念をなかなか突破できない。親鸞は『愚禿鈔』にこう述べている。「本願を信受するは、前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。即得往生は、後念即生なり」と。自心に死んで仏心に蘇る。煩悩を離れ煩悩を見る智慧を得たから、二度と煩悩とは一体化しない。煩悩から離れて、煩悩の影響を受けない心の生活を「悪をもおそるべからず」というのです。「悪をもおそるべからず」は現生不退の生活の内面、すなわち「摂取不捨の利益」です。ここに初めて、仏への道、無碍の一道が開けた。

 南無阿弥陀仏 

*9月18日~6回

by zenkyu3 | 2018-09-23 05:07 | 歎異抄を読む | Comments(0)