2018年 09月 14日 ( 1 )

 また云わく、仰ぎ願わくは一切往生人等、善く自ら己が能を思量せよ。今身にかの国に生まれんと願わん者は、行住座臥に、必ず須らく心を励まし己に剋して、昼夜に廃することなかるべし。畢命を期として、上一形にあるは少しく苦しきに似如たれども、前念に命終して後念にすなわちかの国に生まれて、長時・永劫に常に無為の法楽を受く。乃至成仏までに生死を径ず、あに快しみにあらずや。知るべし、と。

(教行信証・信巻「往生礼讃」引用部分)

 『愚禿鈔』に云わく、「本願を信受するは、前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。即得往生は、後念即生なり」と。善導が臨終のときとした「前念命終・後念即生」を親鸞は現生のこと、すなわち十八願成就のこととして解釈し直している。親鸞は「本願を信受する」ときが「臨終」だと言っているのです。どういうことか。すなわち、煩悩を自分の心として生きているわれらは、煩悩が見せる喜怒哀楽の人生を実の如くに存在していると信じている。「わたし」も「わたしの人生」も、ただ煩悩の映写機が虚空のスクリーンに映して見せているだけの、夢か幻のようなものに過ぎないのに実の如く存在していると思っている。「わたし」と「わたしの人生」に深く執着し、その結果として、「わたし」と「わたしの人生」に完全に一体化してしまっているからです。

 だから、それを「捨てる」ことは「死ぬ」ことに等しい。死ぬ覚悟が求められる。捨てるどころか、それを事実として受け入れることができないに違いない。人生苦の根本原因は我心への執着であるから、我執を断つために仏菩薩はさまざまに善巧方便してくださる。仏菩薩のお育てを受けて、どうにか我執が落ちるところまで来る。最後に、我心と仏心の選択を迫られるがなかなか決断ができない。「わたし」を捨てることの恐ろしさが「死」として眼の前に大きく立ちふさがるからです。しかし、必ず遂げさせるのが弥陀の本願ですから、果遂の誓いゆえ、ついに十八願が成就する。その内面の出来事として、「前念命終」は我執が落ちたことであり、「後念即生」は凡心が仏心に転じたことであると、親鸞は教えてくれたのです。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-09-14 05:12 | 教行信証のこころ | Comments(0)