2018年 09月 11日 ( 1 )

二河白道(3)

 時に当たりて惶怖すること、また言うべからず。すなわち自ら思念すらく、「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、我寧くこの道を尋ねて前に向こうて去かん。すでにこの道あり。必ず度すべし」と。この念を作す時、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く。「仁者ただ決定してこの道を尋ねて行け、必ず死の難なけん。もし住まらばすなわち死せん」と。また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。

(教行信証・信巻「観経疏」引用部分)

 「西の岸」とは仏の心、「東の岸」とは自分の心をいう。自分の心を捨てて仏の心を得ることを「西の岸に到りて」という。仏を求める長い旅の終わりに、最初で最後の選択、自分の心を捨てて仏の心を選び取るという選択が待っていた。東の岸より西の岸に至る白道は「長さは百歩」しかないが「幅は四五寸」しかない。仏の心のすぐ近くまで来たのに、仏の心を得ることの難しさを表現している。また、「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん」は「三定死」といって、自分の心を捨てる恐ろしさを表現している。それでも「一種として死を勉れざれば、我寧くこの道を尋ねて前に向こうて去かん。すでにこの道あり。必ず度すべし」と。機縁熟して、いま、ここに、仏は念仏の行者に仏の心を選ばせる。これが「二河白道」の眼目です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-09-11 05:25 | 教行信証のこころ | Comments(0)