2018年 09月 01日 ( 1 )

 『論』(論註)に曰わく、「本願力」と言うは、大菩薩、法身の中にして常に三昧にましまして、種種の身・種種の神通・種種の説法を現じたまうことを示す。みな本願力より起こるをもってなり。たとえば阿修羅の琴の鼓する者なしといえども、音曲自然なるがごとし。これを教化地の第五の功徳相と名づく。

(教行信証・行巻「論註」引用部分)

 『行巻』の御自釈に云わく、「他力と言うは、如来の本願力なり」と。努力をしなくても「本願力」が自在に働きを現すようになった。「本願力」がはっきりした。「他力」とはっきり自覚できた。それが「他力と言うは、如来の本願力なり」という言葉になって飛び出した。この短い言葉をわざわざ書きとめた親鸞の驚きと喜びを感じる。その証拠を示すかのように親鸞は『論註』の文をすぐに続けて引用する。すなわち、「たとえば阿修羅の琴の鼓する者なしといえども、音曲自然なるがごとし」と。

 「阿修羅の琴の鼓する者なし」とは自力がすっかり廃れてしまったことに喩え、「音曲自然なる」とは他力が自在に働いていることに喩えている。菩薩、八地の教化地に至れば「他力」だけになる。そのことを「大菩薩、法身の中にして常に三昧にましまして」といい、他力のままに働くから「種種の身・種種の神通・種種の説法を現じたまうことを示す」という。われらは菩薩の修行などしたことがないが、不思議にも、このような功徳が与えられてくる。

 南無阿弥陀仏



by zenkyu3 | 2018-09-01 05:46 | 教行信証のこころ | Comments(0)