2018年 08月 31日 ( 1 )

還相の菩薩

 『論註』に曰わく、「還相」とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに「回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」(論)と言えりと。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 量深師に教えを乞う。すなわち、「涅槃というからと言うて、命終わらなければ涅槃の境地が解らぬことはない。生きている中は無上涅槃ではない。有上涅槃というか。無上涅槃のさとりは開けぬが、或る程度の涅槃のさとりは得る。現生に於て涅槃という一種の境地を得る。つまり無生法認というのは涅槃を知る智慧であるから、無生法認の智慧が開けて来れば或る程度の涅槃の境地に到達することが出来るのであることを教えて下さるのが浄土真宗の教えである。」

 「涅槃の静かな心境は、生きてる中にそういう境地がいつも自分の心の中にあって、どのような煩悩があっても涅槃の境地を妨げることはない。煩悩を断ぜずして涅槃を得という静かな何ものにも障えられない境地がある。それを現在の生活の上に経験することが出来る。それが仏からたすけられたということである。」

 「いつ死んでも成仏間違いないのは、現生に於て既に往生している、現生に於て既に浄土往生の生活を営んでおるものであるが故に、仏様でないけれども仏様と等しい生活を他力の不思議で与えて下された。そういうものであるが故に、いつ命が終わっても大般涅槃間違いない確信確証を握っておるものである。こういうのが浄土真宗の教えの本当の精神である」と。(津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 いつでも、何度でも読み返すが、このように教えてくださる先生はいない。われらは「一声の念仏」しか知らない者ですが、一声の念仏には無量の功徳の蓄積がある。どのような功徳をこれから味わせていただけるのか、残りの人生の楽しみです。この頃、思い出すのは竹内先生の最晩年のお姿です。「生死に住せず、涅槃に住せず」と歩きながら呟いていた竹内先生のお姿をわたしは拝んでいた。仏がわたしのために送ってくださった先生だから。

 南無阿弥陀仏



by zenkyu3 | 2018-08-31 05:17 | 教行信証のこころ | Comments(0)