2018年 08月 30日 ( 1 )

海の性一味にして

 また性と言うは、これ必然の義なり、不改の義なり。海の性一味にして、衆流入るもの必ず一味になって、海の味、彼に随いて改まざるがごとしとなり。また人身の性不浄なるがゆえに、種種の妙好色香美味、身に入りぬれば、みな不浄となるがごとし。安楽浄土は、もろもろの往生の者、不浄の色なし、不浄の心なし、畢竟じてみな清浄平等無為法身を得しむ。安楽国土清浄の性成就したまえるをもってのゆえなり。

(教行信証・真仏土巻「論註」引用部分)

 『行巻』の御自釈に云わく、「海と言うは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水と成る、これを海のごときに喩うるなり。良に知りぬ、経に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」と言えるがごとし」と。すなわち、有相は不浄であり、無相は清浄であるがゆえに「空」という。「空」に入れば、すべてが清浄に改まることを「衆流入るもの必ず一味になって」と、安楽浄土を「海」に喩えているのです。

 浄土とは「空」であるから「無相」といい、無相だから「清浄」といい、有相の寂滅であるから「涅槃」といいます。よって、浄土の三種荘厳の方便は「空」に入れたい。しかし、凡夫のわれらに「空」といってもわからないから有相の浄土が説かれている。有相から無相に入れる善巧方便です。だから「空」とは思議を超えた不可思議の領域を指している。「こっちへ来い」と仏は呼び、釈尊は「あちらへ行け」と励ます。そうではあるけれど、浄土という場所があるのではなく、思議に縛られた心が不可思議に転じて、思議から心が自由になる。この「転ずる」という体験を得させたくて「十八願」があるのです。「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」というのもそういうことです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-08-30 05:11 | 教行信証のこころ | Comments(0)