2018年 08月 29日 ( 1 )

 また『論』(論註)に曰わく、「荘厳清浄功徳成就」は、「偈」に「観彼世界相 勝過三界道」のゆえにと言えり。これいかんぞ不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生まるることを得れば、三界の繫業畢竟じて牽かず。すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得、いずくんぞ思議すべきや。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 『浄土論』に云わく、「彼の世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとく、広大にして辺際なし」と。浄土とはなにか。「究竟して虚空のごとく、広大にして辺際なし」、すなわち「空」のことを「浄土」というのでしょう。「三界の道に勝過」した処を指して「空」という。思議を超えて不可思議に触れると「三界の道」が見える。思議から不可思議に立ち位置が転じて「思議」が見える。これが「空」です。見えることを「智慧」という。すなわち、空に触れると智慧が生じる。この菩薩の悟りを「即得往生」といい、この体験を得させたくて「十八願」がある。

 信の一念に獲得した線香の先ほどの明るさの智慧でも智慧は智慧、智慧が完成する「往生」「成仏」に向けて正しい修行が始まったので「不退転」といいます。「またかの浄土に生まるることを得れば、三界の繫業畢竟じて牽かず」とは智慧があると煩悩が見える。煩悩が見えると煩悩の影響を受けない。これが「智慧の功徳」で、この功徳あるために智慧の完成に向けた菩薩の修行が進むのです。以上をまとめると、浄土は「空」であるから「無相」といい、無相だから「清浄」といい、有相の寂滅であるから「涅槃」といいます。信の一念に「涅槃の一分」を見るので、必ず仏になるのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-08-29 05:12 | 教行信証のこころ | Comments(0)