2018年 03月 15日 ( 2 )

帖外ブログ・其の十五

一、永遠から呼ぶ声がした。呼ぶ声のする方へと、ずっと歩いて来た。

二、なぜかはわからないが、この世には真実があると信じていた。誰かが知っていると。

三、仏さまから見たらわたしはどんな風に見えるのだろうか。これだけで信をいただいた。

四、わたしの信体験が確かな体験だったのかどうか、それを確かめるための三十年だった。

五、真実は気づく人しか気づかない。気づいてもわかるとは限らない。

六、信心は如来回向であるが、仏心を伝える善知識がおられて仏心がわたしに伝わる。

七、知っている世界の中にいるが、知らない世界の中では塵に等しい。

八、人の世は本当に騒々しいところで、みな、自分がなにをしているかを知らない。

九、みな、煩悩の賊に母屋を乗っ取られた挙げ句、賊の召し使いに成り下がって終わる。

十、死んだ先に浄土があるのではなく、過去現在未来を超えて後生がある。

南無阿弥陀仏

平成三十年三月十五日

善及記す

by zenkyu3 | 2018-03-15 07:29 | 帖外ブログ | Comments(4)

無義為義(2)

(歎異抄・第十条・その二)

  「念仏には無義をもって義とす。
  不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

  (歎異抄・第十条)

  人間の知恵、人間の分別の知恵を離れたところに、
  そこに如来の御はからいがはじめてあらわれ、
  そこに如来の御はからいに帰入し、御はからいをあきらかに感得する。
  だからほんとうの如来の本願の念仏において、
  人間のはからい、人間の知恵をこえて、
  はじめて如来の御はからいに帰入することができる。
  これが法然上人より伝統せるところであるとご開山聖人はいわれるのである。

  (歎異抄聴記290ページ)

 「人間の分別の知恵を離れたところ」を空といいます。空に触れると智慧が生ずる。智慧とは「人間の分別の知恵」が見えることです。離れたから見えた。見えたから離れた。どちらでも同じですが、智慧を回向して救うのが仏のお慈悲です。そのことを量深師は「そこに如来の御はからいがはじめてあらわれ、そこに如来の御はからいに帰入し、御はからいをあきらかに感得する」と述べています。これは信の一念の体験内容であり、その体験あるがゆえに「人間の知恵をこえて、はじめて如来の御はからいに帰入することができる」のです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-15 06:16 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)