2018年 03月 14日 ( 1 )

無義為義(1)

(歎異抄・第十条・その一)

  「念仏には無義をもって義とす。
  不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

  (歎異抄・第十条)

  義とは、はからいである。上の義は人間のはからい、凡夫のはからい。
  仏法では凡夫のはからいといい、これを現代語になおせば人間のはからい、
  人間の理知と申してもさしつかえないと思う。
  つまり凡知、凡夫の知恵が上の方の義である。
  下の方の義は、字は同じであるが、これは仏智、如来の御はからいである。

  (歎異抄聴記289ページ)

 「義」について、下の「義」は「本義」とするのが一般的のようですが、「義」を量深師のように領解すると「義なきを義とす」の意味は「凡夫のはからいがないことが如来の御はからいである」となり、文意がさらに深くなる。「凡夫のはからい」が「如来の御はからい」に転ぜられる転悪成善の働きがはっきりする読み方だからです。「凡夫の心」が常に「仏の心」に転ぜられて仏の道を歩まされていく。それが「無碍の一道」です。


 なお、量深師の領解を踏まえて意訳すると「はからいを捨て、すべてが如来の御はからいとお任せすれば、仏智の不思議にて、お念仏申されるのである」と、そんな感じでしょうか。また、「義」を「本義」として意訳すれば「凡夫のはからいなく、ただ称えるばかりが念仏です。不思議の仏智ですからお任せするばかりです」となります。


 南無阿弥陀仏




by zenkyu3 | 2018-03-14 06:10 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)