2018年 03月 09日 ( 2 )

七地沈空の難

(歎異抄・第九条・その一)

  「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、
  またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、
  いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、
  「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」。

  (歎異抄・第九条)

  これをみると、念仏についての倦怠期、
  念仏はあいもかわらぬものだという倦怠期にはいった。
  はじめのうちは非常にありがたい。
  第二条のように「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
  よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」というご化導を聞くと、
  なにかしらぬが全身ことごとく光につつまれた。内にも光、外にも光、光の中に光がある。
  それがなれるといつのまにやら「念仏もうしそうらえども」と「ども」となる。
  お義理、惰性で念仏申す。念仏に張り合いがない、勇みがない、勇猛心がなくなってくる。
  これがつまり菩薩のうえでいえば、七地沈空の難である。これは菩薩のある倦怠期である。

  (歎異抄聴記259ページ)

 念仏には踊躍歓喜という体験がある。この体験により得るのが智慧であり、我執が落ちるがゆえに踊躍歓喜する。しかし、この体験も喜びだけで終わってしまえば願力自然が働き出さない。身に働く願力がわからないと踊躍歓喜の感動もやがてただの記憶になる。ここでもう一度、信の一念を体験的に思い出して、智慧がしっかりと働き出すのを確認しなくてはならない。仏となる道を歩ませていただくのは願力自然ですから、お育てを日々感じて暮らす生活に感謝してお念仏が申されることです。七地沈空の難を越えれば二度と退転することはない。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-09 06:09 | 歎異抄聴記を読む | Comments(4)

帖外ブログ・其の十四

一、無我というと難しいが、起きていることを事実と受け入れて文句がなければ無我。

二、今起きていることを事実という。事実を受け入れることを拒否すれば苦悩となる。

三、事実を受け入れると自我が壊れる。どんな場合も事実に立つことが信仰である。

四、事実を受け入れない心を自我という。事実を疑うので心が暗い。

五、自我は決着をつけたいが命に決着はない。決着がないと決着すれば、疑いがない。

六、今起きている事実を信じるか。それとも頭の中にある妄念妄想を信じるか。

七、事実を受け入れないのは頭の中にある妄念妄想に執着しているからである。

八、頭の中の妄念妄想がなにか価値があるように思えたら、それが我執である。

九、妄念妄想は放って置けば直ぐに消えてなくなるから妄念妄想という。

十、妄念妄想は妄念妄想でしかない。それを分析しても意味がない。

南無阿弥陀仏

平成三十年三月九日

善及記す

by zenkyu3 | 2018-03-09 06:04 | 帖外ブログ | Comments(2)