2018年 03月 08日 ( 1 )

宿善有無の御文

  それ、当流の他力信心のひととおりをすすめんとおもわんには、
  まず宿善無宿善の機を沙汰すべし。
  されば、いかにむかしより当門徒にその名をかけたるひとなりとも、
  無宿善の機は信心とりがたし。
  まことに宿善開発の機は、おのずから信を決定すべし。
  されば無宿善の機のまえにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、
  かえりて誹謗のもといとなるべきなり。
  この宿善無宿善の道理を分別せずして、
  手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、
  もってのほかの当流のおきてにあいそむけり。(以上、一部抜粋)

  (御文・第三帖・第十二通)

 信心は仏とわたしの関係です。仏にわたしを見つけていただけば、信心のことはそれで終わる。後は願力自然で仏になるように育てていただけるのであるから、また、育てていただいていることがわかるのであるから、念仏相続の日暮しです。もし本当に仏がわかりたければ、仏がわかる善知識をさがすのは当然で、命を懸けてもわかりたいことなら頭を下げて教えを受けるでしょう。善知識もさがさず、わからない者同士がいくら議論しあってもなにも得るものがない。議論したいのか、信を取りたいのか。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-08 06:06 | 御文を読む | Comments(0)