2018年 03月 07日 ( 3 )

末燈鈔
第五通「自然法爾章」
第六通「愚者になりて往生す」
第二十二通「『宝号経』にのたまわく」

親鸞聖人御消息集・広本
第一通「無明のさけにえいふして」
第十四通「行と信とは御ちかいを申すなり」

御消息集・善性本
第二通「摂取不捨の利益にあずかるゆえに」
第五通「信心の人は如来とひとし」
第七通「ただ、仏にまかせまいらせ給え」

親鸞聖人血脈文集
第一通「他力には義なきを義とす」


by zenkyu3 | 2018-03-07 06:35 | 仏からの道・資料集 | Comments(0)

『宝号経』にのたまわく

  『宝号経』にのたまわく、
  弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、
  ただ仏名をたもつなり。
  名号はこれ、善なり、行なり。
  行というは、善をするについていうことばなり。
  本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、
  善にあらず、行にあらざるなり。
  かるがゆえに、他力ともうすなり。

  (末燈鈔・第二十二通)

 試みに現代語訳。『宝号経』にこうあります。いわく、弥陀の本願にかなうような行もなければ善もない。ただ仏のみ名を称えるだけでいい。み名を称えることにまさる善もなければ行もないからです。というのも、往生の業はさとりの智慧に裏づけられた大行でなければならない。仏から回向された大行をもって始めて往生の業といえる。さとりの智慧の裏づけのない凡夫の称える念仏では往生になんの役にも立たない。だから、本願にお約束された信と行をもって往生しなさいというのです、と。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-07 06:34 | ご消息集のこころ | Comments(0)

即是其行

(歎異抄・第八条)

  念仏は行者のために、非行非善なり。
  わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。
  わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。
  ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、
  行者のためには非行非善なりと云々

  (歎異抄・第八条)

  ひとえに念仏は他力である。念仏は本願力である。
  念仏は本願力にしてまったく行者の自力をはなれたもので、
  念仏は所行の法にして能行の法にあらず。
  そのとくにわれわれの自力を否定するために即是其行といわれる。
  即是其行とは凡夫自力の行ではなく、
  如来回向の大行であることをあらわして、
  「「即是其行」と言うは選択本願これなり」と
  いわれたのであることをあきらかにすれば、
  この条の精神はそこにあきらかになる。

  (歎異抄聴記255ページ)

 「即是其行というは、すなわち選択本願これなり」は『教行信証』(行巻)にある言葉です。「即是其行」とは南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏を称えさせようというのが「選択本願」、すなわち仏のお心であるという、親鸞のお示しです。加えて量深師は、念仏は仏さまが称えさせる「所行の法」であり、わたしが称える「能行の法」ではないと教えています。自力をはっきり否定するのが第八条の趣旨です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-07 06:02 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)