2018年 03月 06日 ( 2 )

帖外ブログ・其の十三

一、この身はあらゆる煩悩悪業を蓄積してきた身である。この身に仏性が埋まっている。

二、煩悩悪業の身に埋まっている仏性を呼び覚まそうとするのが弥陀の本願である。

三、釈迦弥陀は慈悲の父母/種種に善巧方便し/われらが無上の信心を/発起せしめたまいけり(高僧和讃)

四、信心よろこぶそのひとを/如来とひとしとときたまう/大信心は仏性なり/仏性すなわち如来なり(浄土和讃)

五、大信心は仏性なり。分厚い煩悩に覆われていた仏性が釈迦弥陀の善巧方便で目覚める。

六、大信心は仏性なり。信心獲得とは眠っていた仏性が目覚める。これが十八願。

七、信心とは智慧の回向である。智慧は仏となる因であるから、信心は仏性である。

八、信心仏性は仏となる因であり、その本質は仏果と変わらない。仏性はすなわち如来なり。

九、無生無滅の仏心こそが本当のわたしであったと気づくことが仏法の肝心要である。

十、身体がわたしなら死ぬが、無生無滅の仏心がわたしなら、もとより生死はない。

南無阿弥陀仏

平成三十年三月六日

善及記す

by zenkyu3 | 2018-03-06 16:43 | 帖外ブログ | Comments(2)

六字名号の御文

  されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたえたまうを、
  発願回向とはもうすなり。
  この発願回向の大善大功徳を、われら衆生にあたえましますゆえに、
  無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば、一時に消滅したまうゆえに、
  われらが煩悩悪業はことごとくみなきえて、
  すでに正定聚不退転なんどいうくらいに住すとはいうなり。

  (御文・第五帖・第十三通)

 「無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩」が無尽蔵に蓄積されているのがこの身体です。この身体(と心)に執着して、逆に、この身体に心縛られている人はこの身体が自分だと信じているから、身体の死はすなわち自分の死となる。しかし、信の一念に我執が落ちると、分厚い煩悩に覆われていた仏性が目覚める。仏性が目覚めると仏性がわたし(主体)になる。信心獲得はすなわち仏性の自覚です。

 信心仏性は仏となる種(因)であるから、その本質は仏(果)と変わらない。仏因はすなわち仏果であるから「正定聚不退転なんどいうくらいに住す」といい、信の一念にわれらは不死を得るのです。よって「われらが煩悩悪業はことごとくみなきえて」とは、身体がわたしと信じていたが、無生無滅の仏心こそが本当のわたしであったと気づくことを意味していています。凡心から仏心へと主体が転じた。仏心は無生無滅、もとより生死はない。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-06 06:08 | 御文を読む | Comments(0)