2018年 03月 04日 ( 1 )

道光明朗超絶という境地

(歎異抄・第七条・その二)

  念仏者は、無碍の一道なり。
  そのいわれいかんとならば、信心の行者には、
  天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。
  罪悪も業報も感ずることあたわず、
  諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々

  (歎異抄・第七条)

  信心の行者には罪悪も業報を感ずることがない。
  すべてをみな、罪悪を業報として宿業にまかせば、
  業報としてひとつの圧迫も感じない。
  だから火の車も化して清涼の風となると『観経』下中品にあるが、
  罪悪も業報を感じないとはこのことである。
  『教行信証』総序には「円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智」とある。
  その転悪成徳という、ほんとうにわれわれらは真実に象徴ということがわかると、
  因果応報は象徴だと会得できれば、罪悪も業報を感ぜずして、
  それによって束縛を受けずして、むしろそれによって自由を与えられる。
  業報として罪悪より解脱されうる。「道光明朗超絶せり/清浄光仏ともうすなり/
  ひとたび光照かぶるもの/業垢をのぞき解脱をう」、すなわち、道光明朗超絶す。
  信心の行者の内面生活は、道光明朗超絶という境地である。

  (歎異抄聴記250ページ)

 心を離れれば心の影響を受けない。これを「無碍」という。久遠劫より蓄積された無量無辺の煩悩悪業でできたこの身体に深く眠っていた仏性が、弥陀の本願の働きかけにより、いま目覚めた。これが信心歓喜、すなわち仏性の自覚です。心が心を離れて心を見る。見られる心はわたしではない。見る眼がわたしである。この転換あるゆえに煩悩を断たずに涅槃を垣間見る。もう二度と煩悩の束縛は受けない。煩悩は相手にしなければ静かになる。信心を獲得するとこのような心境が開けてくる。


 南無阿弥陀仏心


by zenkyu3 | 2018-03-04 06:04 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)