2018年 03月 02日 ( 2 )

帖外ブログ・其の十二

一、御文を読んでいる。ご法義と思えば退屈。ご自身の信体験だと思えば、ありがたい。

二、学問には体験はいらないでしょうが、念仏には歓喜踊躍ということがある。

三、学問とは大したもので、体験したこともないことをあたかも体験したように話す。

四、信心がなければ伝えるものがない。伝えるものがなければ説法にはならない。

五、湯呑みを出されたら中の茶を飲む。湯飲みに用はない。法を聞いたら仏心をいただく。

六、仏心を伝えるのは言葉である。しかし、言葉は仏心ではない。言葉に用はない。

七、信心を取るために聴聞する。信心は仏の心。仏の心を感じるように聴聞する。

八、仏の心を感じるように念仏する。称えるうちに仏の心と波長が合ってくる。

九、信心とは仏の心です。信心を頂くと世界が仏の心でできていることがわかる。

十、帰命は本願招喚の勅命なり。わたしは喜んで念仏を称えた者ではない。

南無阿弥陀仏

平成三十年三月二日

善及記す


by zenkyu3 | 2018-03-02 21:33 | 帖外ブログ | Comments(0)

自然のことわり

(歎異抄・第六条・その二)

  つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、
  師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、
  往生すべからざるものなりなんどいうこと、不可説なり。
  如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。
  かえすがえすもあるべからざることなり。
  自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々

  (歎異抄・第六条)

  最後に「自然のことわり」、自然とは如来の本願力である。
  そうせしめられる。如来の本願力の自然の道理に即応すれば、
  師匠も弟子もともに願力自然の道理にかなっている。  
  師匠が願力自然の道理にかなっていれば、
  弟子もその感化を受けて、願力自然の道理にかなうにちがいない。
  そうすれば、自ずから仏恩を知る。仏恩を知れば、
  したがって師の恩をも知ることもあるべきことであるとおおせられたのである。

  (歎異抄聴記237ページ)

 本を読んでわかるのは理屈であって悟りではない。本当に助からないと命懸けにならない人は助かりたくないから善知識を探さない。本を読んでも助からない。「師匠が願力自然の道理にかなっていれば」、つまり、師が信心の人であれば「弟子もその感化を受けて」、すなわち、師に伝わっている仏心が弟子に伝わって信心を取るのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-02 06:13 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)