2018年 02月 26日 ( 1 )

ある人いわくの御文

  古歌にいわく
  うれしさを むかしはそでに つつみけり 
  こよいは身にも あまりぬるかな


  「うれしさをむかしはそでにつつむ」といえるこころは、
  むかしは、雑行・正行の分別もなく、
  念仏だにももうせば、往生するとばかりおもいつるこころなり。

  「こよいは身にもあまる」といえるは、
  正・雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうえに、
  仏恩報尽のために念仏もうすこころは、おおきに各別なり。
  かるがゆえに身のおきどころもなく、おどりあがるほどにおもうあいだ、
  よろこびは、身にもうれしさが、あまりぬるといえるこころなり。
  あなかしこ、あなかしこ。  

  文明三年七月十五日  (以上、一部抜粋)

  (御文・第一帖・第一通)

 文中、「かるがゆえに身のおきどころもなく、おどりあがるほどにおもうあいだ、よろこびは、身にもうれしさが、あまりぬるといえるこころなり」とは、蓮如上人ご自身の信体験の告白であろうと思われる。「①正・雑の分別をききわけ、②一向一心になりて、③信心決定のうえに、④仏恩報尽のために念仏もうす」とは、まさに信心を獲得するプロセスを極めて簡便に述べたと言っていい。

 すなわち、「①正・雑の分別をききわけ」とは聴聞の深まりとともに、念仏一つになっていく信仰の姿であり、「②一向一心になりて」とは深く心の深層に降りていく信仰の深まりを示している。この頃には、右も左も、なにがわからないかもわからない疑いの塊になっている。長い瞑想状態が一瞬に弾けて「③信心決定」の体験を得るのです。一帖目第一通、最初の御文に蓮如は「身のおきどころもなく、おどりあがる」自らの信楽体験を示したのです。文明三(1471)年、親鸞滅後二百十年、蓮如五十七歳の御文です。いつ信を得たかはわからない。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-26 06:01 | 御文を読む | Comments(2)