2018年 02月 14日 ( 2 )

  永遠に無明の闇にねむっている衆生をして、
  至心信楽にめざめしめんとして欲生を開顕したもうた。
  その衆生の信心仏性、永遠にして久遠なる信心仏性を、
  いかにめざめしめるかというところに、仏の五劫思惟のご苦労がある。
  なにゆえに仏は永劫修行されたかというと、衆生の仏性たる信心をめざましめる。
  そうするにはどうしたらよいか。それが仏の問題である。
  それが五劫兆載永劫の問題である。
  これをあきらかにするのが真宗学である。

  (歎異抄聴記35ページ)

 仏性とは仏の性質のことです。身体には一つずつ仏性が埋め込まれている。だから、みな仏に成ることができる。しかし、仏性は心の奥深くにあり、しかもぶ厚い煩悩に覆われている。可能性は内にある。光は闇の奥にある。聴聞によって心の深層に降りていくことができる。心の深層に降りていけば、過去世に蓄積した無量無数の悪業を見ることになる。怖じ気づいてはいけない。心の醜さ、浅ましさに耐えなくてはならない。こんな心で仏になれるはずがないとよくわかる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-14 06:18 | 歎異抄聴記を読む | Comments(3)

帖外ブログ・其の六

一、無明とは頭に湧いては消えるだけの思いを自分と誤解すること。

二、無明にもとづいて思いを自分だと執着する。思いに縛られるから我執という。

三、心に執着して我執といい物に執着して法執という。いずれも心の自由を奪う。

四、思いは刹那滅、身体も刹那滅しながら個体としての長さを持っているがやがて滅する。

五、刹那滅するだけのものにわれらはしがみついている。心も身体も刹那滅。知るべし。

六、しがみついてもしがみついたままいっしょに沈む。知るべし。

七、苦悩の原因は我執と法執である。我執と法執の根底には無明がある。

八、智慧の光がないので無明という。心と身体に執着して苦悩の生活から脱け出せない。

九、命の世界は刹那滅を本質とし、無執着という仏のお心をわれらに教えている。

十、刹那滅というのは実にさっぱりしている。命の世界すべてが刹那滅の説法である。

南無阿弥陀仏

平成三十年二月十四日

善及記す

by zenkyu3 | 2018-02-14 06:00 | 帖外ブログ | Comments(0)