2018年 02月 06日 ( 2 )

帖外ブログ・其の一

一、短い文章やメモなどを集めて『帖外ブログ』とします。私家版ツイッターかな。

二、昨年一年間のブログ投稿数は318本。うち『香樹院語録』が161本。

三、このブログはわたしが書いてわたしが読む自信教人信かな。

四、体験を説明できると思えてブログ始めるまでが十四年。さらにブログ書いて十五年。

五、ブログ書いて十五年。読んでくださる御同行お仲間読者の方々も仏のお手回し。

六、今六十四は竹内先生にあった時の先生と同じ歳。二十八年前。七年のご化導。

七、竹内先生はわたしに会えて嬉しかった。わたしは竹内先生に会えて救われた。

八、二月二日の記事「人生はすべて与えられたものである」はなかか受け難い。

九、カテゴリ→曽我量深師の言葉→涅槃の境地に到達する→これが現生不退です。

十、短い文章では伝えたいことしか書けない。なにが伝えたいことかがはっきりする。

南無阿弥陀仏

平成三十年二月六日

善及記す

by zenkyu3 | 2018-02-06 08:00 | 帖外ブログ | Comments(0)

  ただ「われ」という執着をとってしまえば、
  世界全体いたるところに法蔵菩薩はまします。
  我執のあるところには法蔵菩薩はましまさぬ。
  機の深信によって我執をとれば、
  目にみえるところことごとく法蔵菩薩である。
  それは人間のみが法蔵菩薩ではない。
  山河大地ことごとく法蔵菩薩の身体である。
  そこにみんな無上殊勝の願を建立し、一切衆生の罪となやみ、
  それを一身にになって厳然として黙々としてたっておられる。
  眼を開けば満目ことごとく法蔵菩薩であり、
  世界全体が法蔵精神の象徴である。
  これが仏教の世界観である。これは学説や理論ではない。

  (歎異抄聴記189ページ)

 量深師の「目にみえるところことごとく法蔵菩薩である」とは自ら悟った悟りの世界を明らかにするものです。「機の深信によって我執をとれば、目にみえるところことごとく法蔵菩薩である」。我執がなければ見え、我執ある限り見えない心の世界がある。光の国を見えなくしている我執とはなにか。我執が落ちるとはどんな経験か。それはどうすれば可能か。量深師のくれたヒント「機の深信によって我執を落とす」とは、仏の眼でわたしの心を見てみることです。さて、どのように見えることか。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-06 06:14 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)