2018年 01月 16日 ( 1 )

末代無智の御文

(御文を読む・第一回)

  末代無智の、在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして、
  阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、
  一心一向に、仏たすけたまえともうさん衆生をば、
  たとい罪業は深重なりともかならず弥陀如来はすくいましますべし。
  これすなわち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。
  かくのごとく決定してのうえには、
  ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、
  称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

  (御文・第五帖・第一通)

 竹内先生は、お勤めの最後にときどき「白骨の御文」を読まれましたが、先生が蓮如について語ったのを聞いたことがありません。大谷派では蓮如があまり好きではないのだろうと思っていた程です。それはそれとして、蓮如もまた信心の人で、教科書のごとき御文の簡潔明瞭さの背景には信心に育てられた深い信仰生活があります。そこのところに触れられるように読んでみたい。〈御文を読む〉の基本方針です。さて、最初に読むのは『真宗大谷派勤行集』に収められている「末代無智」「聖人一流」「御正忌」「白骨」の四通の御文です。

 竹内先生の口癖だったように思いますが、「仏は救われない者を救う」とよく言われました。どう言うことかというと、救われないという罪の深い自覚があればこそ「仏たすけたまえ」と一心一向に救いを求めるのであるということです。「仏たすけたまえともうさん衆生をば、たとい罪業は深重なりともかならず弥陀如来はすくいましますべし」。読み方によってはいかにも型通りになってしまいますが、「罪業は深重なり」との自覚を掘り起こす作業が聴聞なのでしょう。善人面こそしているものの、その実、内心深くにみな罪業を隠しているからです。善人でいられなくなったら、仏の助けが必要になるが、なかなかそこまで聞けない。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-16 13:40 | 御文を読む | Comments(0)