2018年 01月 10日 ( 1 )

二河白道の譬え(3)

  *2 譬えば、人ありて西に向かいて行かんと欲するに百千の里ならん、
  忽然として中路に二つの河あり。
  一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。
  二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。
  正しく水火の中間に、一つの白道あり、闊さ四五寸許なるべし。
  この道、東の岸より西の岸に至るに、
  また長さ百歩、その水の波浪交わり過ぎて道を湿す。
  その火焔また来りて道を焼く。

  水火あい交わりて常にして休息なけん。

  (教行信証・信巻「二河白道」引用部分)

 水の河とは貪欲、火の河は瞋恚、わたしたちの心、すなわち貪瞋煩悩を譬えている。具体的に言えば、貪欲とは希望や願い、瞋恚とは怒りと絶望です。わたしたちの人生は希望を持つことと、希望がかなわず絶望することと、この二つの間を往き来している。希望とは意味であり、意味は理由です。わたしたちは意味のある世界、理由のある人生を頭に描いて、その中で生きている。事実を生きている訳ではない。頭で考えたことは事実ではない。妄想という。事実より妄想を大切にするから転倒妄想という。

 事実は常に願い(妄想=思い)通りにはならない。妄想を主にするからいつも落胆、失望、絶望する。揚げ句には、思い通りにならないのは人が悪い、人が邪魔するからだと考えるから、怒りは怨み、妬み、憎しみとなって人に向い、怒りは必ず人を傷つける。怒りが罪悪を造る。これを瞋恚という。人の心は貪瞋煩悩で出来ていて、心は身に属しているから、命ある限り「水火あい交わりて常にして休息なけん」という有り様です。ここに救いのないわたしたちの心の現実がある。しかし、救いがないと教えるのは救われる道があるからです。それを白道という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-10 06:11 | 教行信証のこころ | Comments(0)