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無為泥洹の道に次し

証巻・無量寿経(14) 81

 『経』に言わく、それ衆生ありて、かの国に生まるれば、みなことごとく正定の聚に住す。所以は何ん。かの仏国の中にはもろもろの邪聚および不定聚なければなり、と。また言わく、かの仏国土は、清浄安穏にして微妙快楽なり。無為泥洹の道に次し。それもろもろの声聞・菩薩・天・人、智慧高明にして神通洞達せり。ことごとく同じく一類にして、形異状なし。ただ余方に因順するがゆえに、人・天の名あり。顔貌端政にして世に超えて希有なり。容色微妙にして天にあらず人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受けたるなり、と。(真宗聖典281ページ)

 十一願の成就文に続けて、また言わくと、こちらも無量寿経からの引用です。かの仏国土とは涅槃界のことです。わたしの心を離れることを(不断煩悩)得涅槃といい、涅槃界という地理的な、あるいは空間的な場所があるわけではない。ただ、浄土は有相をもって語られるから、無為泥洹の道に次し、と言います。また、われらは煩悩の身を纏った仏性で、身体は仏性を納めておく箱に過ぎない。箱はただの入れ物だから箱であればなんでもよく、煩悩の身に区別などない。涅槃、すなわち仏心には形がない。仏は有相をもって語られるが、もともと色も形もないから無相です。形がなくて働きだけがある。引力は目に見えないがすべての物質に平等に働いているように、本願のお力も働きだけがあって形がない。形がないことを、みな自然虚無の身、無極の体を受けたるなり、と言っている。煩悩の身を捨てれば虚無の身となる。つまり、臨終の夕、煩悩の身を捨てれば無上涅槃を悟って仏に成なる。以上、計十四回で無量寿経を読み終わりました。善及

 南無阿弥陀仏
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by zenkyu3 | 2023-05-28 05:45 | 教行信証のこころ | Comments(0)