人気ブログランキング |

戒行恵解ともになしといえども

 いかにいわんや、戒行恵解ともになしといえども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらわれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはそうらえ。

(歎異抄・第十五章 -73)

 竹内先生は「わたしは死んだ、と言った人はいない」と言われた。生き物であるわれらは生まれる前を知らないし、死んだ後のことも知りようがない。体の臓器の一部でしかない頭脳が描いた夢のストーリーがなんであれ、それが金持ちの夢であったとしても、夢見の悪い盗っ人の夢であったとしても、頭脳にすればどちらでもかまわない。たとえて言えば、頭脳は茶を入れる器、どんな茶を入れようと器に文句はない。死とともにどんな夢も終わる。だから、生きているうちに「ああ、夢を見ているんだなぁ」と気づかせていただけたら、それが頭脳の働きを超えた不思議の仏智です。「一切の衆生を利益せん」智慧の働きがはっきりと働きを現した時を「さとりにてはそうらえ」と言うのでしょう。「わたし」が仏になるなんて話ではない。「わたし」も「わたしの人生」もただの夢、頭の中の内容物でしかない。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2019-05-20 05:24 | 歎異抄を読む | Comments(0)