人気ブログランキング |

辺地懈慢疑城胎宮にも往生して

 信ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。

(歎異抄・第十一章 -39)

 竹内先生は「わたしは死んだ、と言った人はない」と言われた。誰も自分の死を経験することはできない。『歎異抄』が親鸞より古臭い感じがするのは「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり」(第九章)などと、死後の浄土を説いているからでしょう。「浄土」とは仏のお心のことであり、「往生」とは仏のお心の中に自分を発見することです。よって、「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ」(第十五章)というのも、本願を信じることが「報土に生ずる」ことであり、煩悩具足の身をまとっているから「仏とはまだ言わないぞ」と言っているだけのことです。誰も経験したことのない死後の話などしても意味がない。

 南無阿弥陀仏     

by zenkyu3 | 2019-04-16 05:31 | 歎異抄を読む | Comments(0)