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私の信ずる如来

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わが信念 1

 私は常々信念とか如来とか云ふことを、口にしていますが、其の私の信念とは如何なるものであるか、私の信ずる如来とは如何なるものであるか、今少しく之を開陳しやうと思ひます。

(清沢満之『わが信念』1/18)

 信心とは仏を経験する。仏を経験した満之が仏を語る。その実は、満之の言葉となって仏がその姿を現された。

 南無阿弥陀仏


 ※「我が信念」は満之が没する一週間前、すなわち、明治三十六年五月三十日に書かれたもので、これが絶筆となった。満之の信仰が最も平易かつ明確に表れており、同年六月「精神界」に発表された。(東本願寺刊『清沢満之の精神主義』より)

 ※本文は東本願寺刊『清沢満之の精神主義』より引用させていただきました。善及

Commented by 畑のかえる at 2020-02-07 10:20 x
おはようございます。
今日からは「清沢満之に学ぶ」をいただきます。
お同行の説明には「信心とは仏の経験」とありましたが、わたしは、お同行が説いてこられた「経験」とは「如来の智慧の廻向」であり、それは「信心歓喜」であるとの文字的な理解をしてきました。「清沢満之に学ぶ」においてはどのように説かれているか拝読しようと思います。
もうひとつ、如来さまに対して畏れを知らないわたしについて。わたしは、如来さまを理解して、あるいは浄土を理解してからはじめて如来さまを信じようという、たとえるお学校の授業の先生を見るような見方をしていました。本願成就、五劫思惟をなさった如来さまを学校の先生のように見ていました・・・。
今朝もありがとうございました。
なむあみだぶつ。
Commented by zenkyu3 at 2020-02-07 17:05
> 畑のかえるさん
「人生問題」と「生死の問題」と言います。与えられてくる人生苦が縁になって法を聞くようになる。しかし、多くは人生が幸せに送れれば悟りを開くことなど興味がない。念仏しておけば地獄には堕ちないだろう位の信心でしかない。それはそれで結構ですが、竹内先生はこんなことを言われた。キリスト教では「神になる」とは言わない。しかし、仏教では「仏になる」と言う、と。わたしを仏にしたいのが仏のわたしにかけられたお心です。仏になるとはどういうことか。真面目に聴聞しなくてはならない。それが「生死の問題」です。畑のかえるさんももうじき死ぬでしょう。なすべきことをなした人生でしたか。善及
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by zenkyu3 | 2019-02-01 05:20 | 清沢満之を読む | Comments(2)