懺悔 五

  懺悔とは、仏智に照らされて見るあさましき身をはじる心であるけれど、他力の行者は「よきこともあしきことも業報にさしまかせてひとえに本願をたのみまひらす」、すなわち、よしあしにとらわれる心から解放されているので、もとより悪を知り、反省して自己を改善純化しようとはしないものでしょう。自我(エゴ)への執着の一部が破れれば、エゴの醜い様は覆いようがないからです。

 反省も懺悔も身を顧みる点では一見似ていますが、身(エゴ)の安全を図る反省と、仏智に照らされて救われようのない業の事実を見る懺悔とでは立っている場所が違います。現生不退といいますが、迷いを迷いと知って迷うことはできないものでしょう。迷いも救いの中です。

 「わが心に往生の業をはげみてもうすところの念仏をも自行になす」自力作善の人は、ひょっとしたら自分の意志の力で心境が開けるのではないかと自分の知力と人格に頼る心があるので、迷いを離れられない。「いずれの行もおよびがたき身なればとても地獄は一定すみかぞかし」と、自心に微塵の期待もない望み尽き果てた者をこそ悪人といい、我らすべてを悪人にしたてかあげて救いますとるのが如来の本願なのだと思います。

 「善悪のふたつ総じてもて存知せざるなり」とよしあしにとらわれる臆病で疑い深い心から解放されるがゆえに、「わがはからわざるを自然とまうすなり。これすなわち他力にてまします」と、善にもれる不安も悪に落ちる恐怖もない大きな安心が開けているのです。

 1994-8-1
by zenkyu3 | 2017-03-12 11:48 | 樹心会々員からのお便り | Comments(0)