松原致遠 八

 「自分の心を善くしたいという願いなきものは、もとより畜生と等しいものでありましょう。この願いがおきたとき、善し悪しの判断に迷うのが常でありますが、そのときは、我らの心を照らしたもう心の親のましますことを信じて、その心を仰いで自らの心を見るのである。その心を仰げば、善くなろうとする心さえ驕慢であることが知られてくる。……鏡にかかって自分の顔の見える如く、かの大いなる心に常に立ち帰って、生かされているかたじけなさを感じ、その大恩に背く自らを発見して、自分の愚悪を知らされるのである。この自らを照らす知慧、この知慧こそ最勝無上の知慧であり、この知慧に遇わぬ人の歩みは、終始彷徨いにすぎません。この知慧に照らされて、静かに自らの愚かさを知らされるとき、心から湧き起こるのが慚愧の心であります」。

 これは松原致遠という方の文章をまとめた『わが名を称えよ』という本の一節です。手垢に汚れ、背の糸も切れたこの本を五年ぶりにとり出して読んでおります。仕事に失敗して、会社に通ってもすることもなく、四ヶ月ほどこの本を読むのを日課のようにして過ごしていました。思い出というにはまだ痛みが残っているように思います。この本との出会いが聞法の縁となり、竹内先生に出会うことがかないました。自分の迷いづめの心を持て余し、高校生みたいに愚図愚図とやってきたら二十年もたってしまっていた。部下を裏切るという仕方でしか自分の卑怯さ傲慢さに気づくことができませんでした。何程か真宗を学べば再び字面に迷い有り様、聞法の原点に帰ろうと思ったことでした。

 1995-3-1
by zenkyu3 | 2017-03-20 10:52 | 樹心会々員からのお便り | Comments(0)