2017年 03月 11日
自分を知るということ
樹心会々員からのお便り 4
人は自分の意識を使って、自分自身(実はこれ意識の内容物)を見極めようとするが、これは右手で右手を掴もうとするようなもので、とうてい不可能だと思うのです。結局、自分を知ると言っても、自分に〈ついてのイメージ〉を自分〈そのもの〉と錯覚しているのでしょう。
私たちは、自分もちの意識そのものを、あたかも主人のように崇め、意識に表れ出た“思い”を真実と執着して、頭(=意識・分別)でこしらえた現象に振り回されて(六道輪廻して)生きている。しかし、主人とも頼む意識そのものが、無明・煩悩に巧妙に操られている事実-意識の虚妄性-に気づけば、意識の内容物たる“思い”にとらわれることもなくなるでしょうが、そのためには一度、意識そのものを離れ、意識全体が相対化される必要があるのだと思うのです。それはちょうど、人類が地球を離れることによって初めて、地球とはなにかを知ったように……です。
この意識のとらわれを離れる自己超越の体験を親鸞は「横超」と読んでいますが、一切を超えた絶対者の前に、相対有限なる“自分”が明らかになる事態を「弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける」とも親鸞は和讃しています。
1993-4-1
by zenkyu3
| 2017-03-11 09:22
| 樹心会々員からのお便り
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