榎本栄一『わが名を称えよ』序文

 その折りの私はまだ念仏さえ称えておりませんでしたけれど、それから何十年もたって、松原先生もお亡くなりになり、他に縁のあった先生方もお亡くなりになった-その頃から、思いもかけず私のなかからひとりでに念仏が生まれるようになってまいりました。そして、念仏申せば自分が見える、自分が見えるということは自分の煩悩が見えるということが、おぼろに感じられて目の前に一本の細い道が開けてきました。それが先生のおっしゃっていた智慧の念仏、内観の念仏でありました。内観とは自分の煩悩が照らされることです。自分の煩悩が照らされて、その煩悩を阿弥陀様にお任せして、流れるままにひっつかず手放しているのが往生浄土の道であるというようにお説きくだされたのは、致遠先生しか私は知りません。

 そのギリギリの所をいま一言で言えば「見える」ということでしょう。誤解を恐れずにいえば、見えてさえおれば何をしても、何をさして頂いてもよろしい。見えてさえおれば右へ行ってもよし、左に行ってもよし。結局「見えておる」ということが一番大事で、これより他の有難そうなことはみんな付属物にすぎません。ただそう言うと、自分が賢くて見えておるような気分になるから私には危ない。そこでお照らしをこうむっているというほうが私にはしっくりする。同じことです。宗教の救いというものは、ただこの「見えておる」ということに尽きるのではないでしょうか。そして松原先生のお説きになった智慧の念仏の極意こそ、この「見えておる」ということなのです。念仏申して内観深まり、その内観から生まれてくる智慧というのは、ただこうして自分が「見えておる」 という一事に尽きるのだと、いよいよ深く知らせて頂いております。

 榎本栄一
 櫛谷宗則編・松原致遠著『わが名を称えよ』
 序文より一部抜粋
by zenkyu3 | 2016-11-17 05:39 | 仏からの道・資料集 | Comments(0)