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行をはなれたる信はなし

親鸞聖人御消息集・広本

 四月七日の御ふみ、五月廿六日たしかにたしかにみ候いぬ。さては、おおせられたる事、信の一念、行の一念、ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆえは、行と申すは、本願の名号をひとこえとなえておうじょうすと申すことをききて、ひとこえをもとなえ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかいをききてうたがうこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこえするとききてうたがわねば、行をはなれたる信はなしとききて候う。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべく候う。これみな、みだの御ちかいと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかいを申すなり。あなかしこ、あなかしこ。いのち候わば、かならずかならずのぼらせ給うべく候う。

 五月廿八日  (花押)
 覚信御房御返事

 専信坊、京ちかくなられて候うこそたのもしうおぼえ候え。また、御こころざしのぜに三百文、たしかにたしかにかしこまりて、たまわりて候う。

(親鸞聖人御消息集・広本・第十四通)

 建長八(1256)年、親鸞八十四歳、弟子の覚信の「信の一念、行の一念」についての質問に答える返信の手紙です。親鸞没後三十年に書かれた『歎異抄』にも「なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか、また名号不思議を信ずるかと、いいおどろかして」(第十一章)とありますが、親鸞存命の頃からあった異義と見えます。異義などというとオドロオドロしいが、要はまだ信心がわからない。わからないのにわかったように教えるから問題が生じる。

 さて、「信の一念」ということがある。どういうことかといえば、仏のお心を経験する。仏のお心を知ることと自分の心が見えるということは同じことです。見えたからといって自分のなにかが変わったということはないが、自分以外の大きな心に触れて自分が誰かがわかった。これが救われるということです。わたしを見そなわす眼がある。これがわかった一瞬が「信の一念」であり、わたしにかけられたお心があったことの驚き、わたしを縛っていた小さな心から離れられたことの喜び、そのようにして救っていただいた仏への感謝、その時はそんなことはまったくわからないが、それらが一つになって「一声の念仏」になるのです。だから「信の一念」と「行の一念」とは同時です。救われた喜びと、救っていただいた感謝は一つのことですから、「信の一念、行の一念、ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし」という親鸞のご化導です。信の一念に行が確立し、念仏から煩悩が照らされて仏への道に立たされて行く。念仏のお力で信心の智慧が深まっていく無碍の一道はその時から始まったのです。


 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-11-07 05:47 | ご消息集のこころ | Comments(0)