歎異抄・第九章(5)

 (4)「踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々

(歎異抄・第九章)

 第九章の「その後」について。唯円は親鸞のご化導により「七地沈空の難」を越えた。どのように越えたか。唯円はご化導の受け止めを後半の第十六章に「信心さだまりなば」(信後の念仏相続は)と語っている。すなわち、「信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずしてただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします」と。

 思うに、煩悩を気にするのは、わたしが煩悩を起こしている、煩悩に責任があると思うからです。しかし、煩悩も菩提もそもそもが因縁生ですから、起こす〈わたし〉なくして煩悩は起き、因縁尽きれば〈わたし〉に関係なく消えていく。煩悩が起きたり消えたりすることに〈わたし〉はまったく関与していない。それどころか、そもそも〈わたし〉がいない。よって、「わがはからわざるを自然ともうすなり」とは、〈わたし〉はいるが「はからわない」ようにするのだというのではなく、そもそも初めから「はからう」〈わたし〉がいない。だから「わがはからわざる」というのです。〈わたし〉がないから「自然」といい、〈わたし〉がないから「仏」という。

 南無阿弥陀仏 

by zenkyu3 | 2018-10-22 05:16 | 歎異抄を読む | Comments(0)