何をもって歓喜するや

 問うて曰わく、初歓喜地の菩薩、この地の中にありて「多歓喜」と名づけて、もろもろの功徳を得ることをなすがゆえに、歓喜を地とす。法を歓喜すべし。何をもって歓喜するや。答えて曰わく、「常に諸仏および諸仏の大法を念ずれば、必定して希有の行なり。このゆえに歓喜多し」と。かくのごとき等の歓喜の因縁のゆえに、菩薩、初地の中にありて心に歓喜多し。「諸仏を念ず」というは、然燈等の過去の諸仏・阿弥陀等の現在の諸仏・弥勒等の将来の諸仏を念ずるなり。常にかくのごときの諸仏世尊を念ずれば、現に前にましますがごとし。三界第一にして、よく勝れたる者ましまさず。このゆえに歓喜多し。

(教行信証・行卷「十住毘婆沙論」引用部分)

 親鸞は『浄土和讃』の最初に、仏教にとり一番大切な「念仏三昧」を示している。すなわち「弥陀の名号となえつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもいあり」と。「憶念の心つねにして」が念仏三昧です。念仏行の極まり、念仏行の完成です。いつでも、どこでも、なにをしていても、たとえ眠っているときですら、つねに仏はわれらを憶念していてくださる。だから、われらはいつも仏のお心の中にある。仏のお心が浄土だから、われらは浄土の住人だといっていい。仏がわたしをつねに憶念しておられるから、わたしも仏をつねに憶念している。心と心が通じ合っているから仏を疑わない。このようであることを「常にかくのごときの諸仏世尊を念ずれば、現に前にましますがごとし」という。行の一念に確立した行が完成する念仏行の極まりを「念仏三昧」という。念仏三昧に入るから菩薩八地の教化地という。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-10-16 05:22 | 教行信証のこころ | Comments(0)