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歎異抄・第十三章(3)

 また、あるとき「唯円房はわがいうことをば信ずるか」と、おおせのそうらいしあいだ、「さんぞうろう」と、もうしそうらいしかば、「さらば、いわんことたがうまじきか」と、かさねておおせのそうらいしあいだ、つつしんで領状もうしてそうらいしかば、「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、おおせそうらいしとき、「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、もうしてそうらいしかば、「さてはいかに親鸞がいうことをがうまじきとはいうぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざることを、おおせのそうらいしなり。

(歎異抄・第十三章)

 自力は自由意思を証明しなくてはならない。しかし、それは不可能であることの親鸞のご化導がこの長文の挿話です。「なにごともこころにまかせたることならば」が自由意思です。「一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり」が自力無効です。

 さて、この書には「唯円坊」の名が二度出てくる。最初は第九章の「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」で、二度目はこの章の「唯円房はわがいうことをば信ずるか」です。二度とも親鸞の呼びかけで、親に呼ばれて喜ぶ子どものような唯円の姿がそこにはあります。親鸞亡き後も、いまも親鸞から呼ばれているのでしょう。唯円はこの書に自分の名を残さなかったが、これでこの書の作者がわかる。親鸞との初めて出会いが第二章、親鸞に信心を認めていただいたのが第九章です。そして、第十三章のこの挿話からは親鸞と唯円の温かな師弟関係が伝わってくる。これだけの長文を挿話として残したことには意味がある。親鸞を思い出し、懐かしさに涙する唯円が目に浮かぶようです。この書の白眉です。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-11-13 05:57 | 歎異抄を読む | Comments(0)