歎異抄・第十三章(1)

 弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからずということ。この条、本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざるなり。

(歎異抄・第十三章)

 第十三章は「道徳化」の実際例です。「悪をおそれざる」とは第一章に「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに」とある親鸞の言葉です。「悪」とは煩悩のこと、「おそれざる」とは人は支配者を畏れる。煩悩に支配されているから凡夫は煩悩を畏れる。煩悩に支配されていながら、煩悩は自分でコントロールできるはずだと大きな勘違いをしている。それが道徳の根本にある自力の心です。心を深く観察すればわかるが、煩悩は業道自然で勝手に起きてくる。もし、わたしが起こしているなら起こさないことも可能なはずだが、「ひとえに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか」、起こさないどころか起きてしまった煩悩すら内に隠しておけない。正しく心を観察すれば、煩悩の支配者にはなれないことがわかる。なぜなら、すべては因縁生起の現象で、煩悩もまた因縁によって起こったり消えたりしているだけで、わたしがどうこうできるものではないからです。過去から積み上げてきた無量無辺の悪業の蓄積を縁として起きてくる煩悩なので、それをとくに「宿業」という。善業であれ悪業であれ、すべては宿業の催すところで、煩悩をコントロールすることはできないと知ることを「宿業観」といいます。煩悩はわたしの一部だと思っているかもしれないが、そうではなくて、わたしが煩悩の一部なのです。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-11-11 05:42 | 歎異抄を読む | Comments(0)