歎異抄・第九章(4)

 (4)「踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々

(歎異抄・第九章)

 量深師に教えを仰ぐ。「これをみると、念仏についての倦怠期、念仏はあいもかわらぬものだという倦怠期にはいった。はじめのうちは非常にありがたい。第二条のように「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」というご化導を聞くと、なにかしらぬが全身ことごとく光につつまれた。内にも光、外にも光、光の中に光がある。それがなれるといつのまにやら「念仏もうしそうらえども」と「ども」となる。お義理、惰性で念仏申す。念仏に張り合いがない、勇みがない、勇猛心がなくなってくる。これがつまり菩薩うえでいえば、七地沈空の難である。これは菩薩のある倦怠期である。」(曽我量深著『歎異抄聴記』より)

 第九章は「七地沈空の難」のことであるとは量深師に教えていただいた。こんなことは他の人は言わない。さて、親鸞は現生十種の益の三番目に「転悪成善の益」をあげている。悪とは煩悩であり、善とは菩提です。煩悩と一体化すれば生死、煩悩を離れれば涅槃という。信を得たあとは、一度は煩悩を離れたところの悟りの感触があるから、その感触を思い出して念仏すれば煩悩を離れることができる。これが「転悪成善」の働きです。心は因縁生であるから、煩悩即菩提といって、縁によって心は煩悩にもなれば菩提にもなる。どちらにも転ずる。初地不退の法位に入った後、転悪成善の働きにより生死と涅槃の間を久しく往来するが、いつしか生死にもどらなくなる。願力自然のお育てにより「念仏三昧」に入ったのです。唯円は親鸞のご化導により「七地沈空の難」を越えた。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-10-21 05:20 | 歎異抄を読む | Comments(0)