歎異抄・第九章(2)

 (2)「よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。」

(歎異抄・第九章)

 第二節は唯円の質問の一「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろう」に対する回答です。唯円は「踊躍歓喜のこころ」を一度は経験した。しかし、それが最近は「おろそかにそうろう」と訴えた。それに対して親鸞は「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と同調した。なぜ、親鸞は同調したか。これが「現生不退」の内面の事実だからです。信の一念に智慧をいただく。智慧とは煩悩が見えることです。見えるとは煩悩を「離れる」ことであって煩悩が「なくなる」ことではない。踊躍歓喜の興奮がある間はなにか悟ったような気持ちになるが「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろう」と興奮がさめてくる。ようやく信の一念にいただいた智慧が働き出そうとしているのです。智慧が働くと煩悩が見える。智慧が働きだしたからこそ「いそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬ」ありのままの自分の心が見え始めたのだということです。

 南無阿弥陀仏



by zenkyu3 | 2018-10-19 05:24 | 歎異抄を読む | Comments(0)