歎異抄・第八章(1)

 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々

(歎異抄・第八章)

 『宝号経』にのたまわく、弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり。名号はこれ、善なり、行なり。行というは、善をするについていうことばなり。本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、善にあらず、行にあらざるなり。かるがゆえに、他力ともうすなり。(『末燈鈔』第二十二通より一部抜粋)

 第八章と同じ趣旨だったので引用した。参考までに意訳してみる。『宝号経』にこうあります。いわく、弥陀の本願にかなうような行もなければ善もない。ただ仏のみ名を称えるだけでいい。み名を称えることにまさる善もなければ行もないからです。というのも、往生の業は智慧に裏づけられた大行でなければならない。仏から回向された大行をもって始めて往生の業といえる。智慧の裏づけのない凡夫の称える念仏では往生になんの役にも立たない。だから、本願にお約束された信と行をもって往生しなさいというのです。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-10-14 05:52 | 歎異抄を読む | Comments(0)