2018年 09月 15日
前念命終・後念即生(2)
(教行信証・信巻「往生礼讃」引用部分)
量深師に教えを仰ぐ。「普通、信の一念、信の一念というのは、前念命終である。つまり信の一念によって、私どもは、自分の一生涯の一大事を決定した。信の一念によって私どもは、わがすべきことは一切完了した。いくら生きておっても差し支えないが、しかし、信の一念をもって終っても、なんの後悔もない。満足して死ぬことができる。満足して死ねる一念である。後念即生ということは、信の一念と続いて、必然的に連続して後念即生である。信心決定したその時に後念即生である。」(曽我量深著「親鸞との対話」より)
また、『愚禿鈔』に云わく、「本願を信受するは、前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。即得往生は、後念即生なり」と。どういうことか。親鸞は「即ち往生することを得る」とは「往生する」と言ってもいいのだと言っているのでしょう。善導が「臨終」のときとした往生を「現在」にもってきた。「命終」(臨終)は「本願を信受する」ときだと言ったのは親鸞が初めてです。これによって「往生」に二義があることがはっきりした。すなわち、十八願成就のとき、信の一念を「心の往生」とし、十一願の滅度のとき、臨終を「身の往生」とする、と。親鸞にはそう領解する体験の裏付けがあったのでしょう。
南無阿弥陀仏
by zenkyu3
| 2018-09-15 05:29
| 教行信証のこころ
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