横超断四流

 「断」と言うは、往相の一心を発起するがゆえに、生として当に受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。かるがゆえにすなわち頓に三有の生死を断絶す。かるがゆえに「断」と曰うなり。「四流」は、すなわち四暴流なり。また生・老・病・死なり。

(教行信証・信巻「御自釈」部分)

 「断」というのは、信の一念に空に触れる。空とは無相である。無相とは仏である。仏を垣間見た瞬間、生まれるということも死ぬということもない不生不滅、すなわち無生忍を悟る。果位の仏を見て因位の智慧を得るのである。無相を見るは有相の滅を見ることだから、迷いの果である「六趣・四生」がないと知る。流転輪廻する主体、すなわち迷いの「因」である「わたし」がないのであるから「生として当に受くべき生なし」。すなわち「果」としての生死がない。このように知るから、これを「因亡じ果滅す」という。信の一念に「生死を断絶した」のである。

 また、「四流」とは四暴流、迷いの因としての煩悩、すなわち「わたし」であり、「生老病死」は迷いの果である。わたしが生まれ、わたしが老い、わたしが病んで、わたしが死ぬ。迷いの生死、すなわち人生である。信の一念に無相を見れば仏を知る。仏は涅槃である。涅槃は真如である。真如から方便して如来と現れて涅槃へと導いてくださる。このような仏を垣間見るから「即ち往生を得る」という。十八の願が成就したのである。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-09-13 05:52 | 教行信証のこころ | Comments(0)