二河白道(4)

 この人すでに此に遣わし彼に喚うを聞きて、すなわち自ら正しく身心に当たりて、決定して道を尋ねて直ちに進みて、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚うて言わく、「仁者回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。必ず死せんこと疑わず。我等すべて悪心あってあい向うことなし」と。この人、喚う声を聞くといえどもまた回顧ず。一心に直ちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなわち西の岸に到りて永く諸難を離る。善友あい見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ喩なり。

(教行信証・信巻「観経疏」引用部分)

 念仏の行者は旅の終わりに二つの声を聞く。一つは「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん」と。これは仏の声です。二つは「仁者回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。必ず死せんこと疑わず」と。これは自分の心の声です。二つの心を知った。「白道」を見るまでは自分の心が仏になると信じていたが、仏になるには「仏心」をいただかなくてはならない。すなわち、初めて「白道」を見つけ、ついで「白道」を渡る決断をするまでの信心獲得の内面を「二河白道」は描いているのです。「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん」。三定死は自分の心を捨てる恐怖心でしょう。崖下で手を広げて待っている仏を信頼して身投げする気持ちです。「さあ、落ちてこい」と仏、あなたは身を投げられるか。「一心に直ちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなわち西の岸に到りて永く諸難を離る」。身を捨てる決意の瞬間に救われるでしょう。自我に死んで仏心に蘇る。十八の願成就して、信心の人が生まれたのです。

 南無阿弥陀仏


Commented by ナナシ at 2018-09-12 07:12 x
蘇る。このお言葉を味わいますに、自分を奪い返すことだと体解します。煩悩の奴隷であることは今も変わりません。されど、そのことを知らなかったのです。煩悩を離れることは煩悩を煩悩と知る、見えること。浅ましいひぐらしそのままになんまんだぶを聞くばかりであります。南無阿弥陀佛
Commented by zenkyu3 at 2018-09-12 13:23
> ナナシさん
蘇るとは「蘇生」でしょう。一度死んで生まれ変わる。前念命終、後念即生。大死一番、絶後蘇息。自我に死んで仏心に生まれ変わる。竹内先生の師、野田明薫は「戸籍が変わる」といいました。凡数の摂にあらず。凡夫から念必定の菩薩に生まれ変わる。浄土の住人になる。煩悩不浄の身を持っているから浅ましいのは当たり前、そんなことは成仏の妨げには一切ならない。智慧がはっきりするほどに心は浄化されて喜びが多くなる。苦しみを受けても影響がないから「念仏は無碍の一道なり」と申します。善及
Commented by ナナシ at 2018-09-12 22:06 x
戸籍が変わる。全く不可思議であります。理解が及びません。唯佛独明了。もはや善知識のお勧めをただ頂拝するばかりです。教化地のお話しもありがとうございます。お説教では説くことができないのだと思いますが、本当に大切なところだと思います。南無阿弥陀佛
Commented by zenkyu3 at 2018-09-13 07:50
> ナナシさん
仏は観念ではなく命であるから経験することができる。しかし、それを経験しても言葉にするのが非常に難しい。釈尊以来、仏教には仏の経験を言葉にしてきた伝統があります。共に学んでまいりましょう。善及
by zenkyu3 | 2018-09-12 05:02 | 教行信証のこころ | Comments(4)