常に念仏三昧を修すれば

 『涅槃経』に依るに、「仏の言わく、もし人ただよく心を至して、常に念仏三昧を修すれば、十方諸仏恒にこの人を見そなわすこと、現に前に在すがごとし。」このゆえに『涅槃経』に云わく、「仏、迦葉菩薩に告げたまわく、もし善男子・善女人ありて、常によく心を至し専ら念仏する者は、もしは山林にもあれ、もしは聚落にもあれ、もしは昼・もしは夜、もしは座・もしは臥、諸仏世尊、常にこの人を見そなわすこと、目の前に現ぜるがごとし、恒にこの人のためにして受施を作さん」と。

(教行信証・信巻「安楽集」引用部分)

 信の一念に行としての念仏が確立するが、信心はまだまだしっかりしていない。「煩悩を離れる」感触がわかっただけで、まだまだ智慧もはっきりせず、信心もまだまだ揺れ動く。ただ方向は見えたから、そちらに歩みだす。法位に入って正しい修行が始まった。それが信の一念の意味で、信の一念がなければ仏道が成り立たない。親鸞は『冠頭讃』に「憶念の心つねにして」と仏心を讃えておられるが、大切なことは、仏がわたしを憶念するから、わたしが仏を憶念するということです。信心はまだまだ揺れ動く。揺れ動くから求める。信の一念に見た無相(仏)を思い出し思い出し、自力無効を何度も何度も確認しながら仏道を歩まされていく。これが「現生不退」の内面の事実です。信の一念に確立した智慧の念仏が無に返り無に返りしながら深化していく「無碍の一道」です。やがて深化が極まって無に返る努力をしなくても仏を忘れなくなる。いつも仏のお心とつながっているようになる。「諸仏世尊、常にこの人を見そなわすこと、目の前に現ぜるがごとし」となる。これが「念仏三昧」です。それを親鸞は「憶念の心つねにして」と示された。念仏三昧は念仏の極まり、自利の成就、菩薩八地の教化地に入ったということです。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-10-17 05:11 | 教行信証のこころ | Comments(0)