果の中に因を説く

 また性と言うは、これ聖種性なり。序めに法蔵菩薩、世自在王仏の所にして無生忍を悟る。そのときの位を聖種性と名づく。この性の中にして四十八の大願を発して、この土を修起したまえり。すなわち安楽浄土と曰う。これ、かの因の所得なり。果の中に因を説く。かるがゆえに名づけて性とす。

(教行信証・真仏土巻「論註」引用部分)

 心が心を離れて心を見る。このようなことが起きる。この一瞬、心は見られる心から見る心に転ぜられる。見る心を「仏」といい、見られる心を「煩悩」という。「性」というのは、心を離れて心を見れば、みな等しく「無生忍」という「智慧」が生じるので「性」というのです。「この性の中にして」建立された浄土の方便であるから、方便を信じれば必ず「性の中」に入ることができる。諸仏菩薩の願いはみな等しく、衆生をして「性」に入れ、涅槃の因となる「無生忍」を得させたい。

 南無阿弥陀仏


Commented by kk at 2018-08-23 12:14 x
自分が得をしようと色々見ていると思っていますが、私は見る心ではなくて、本当は見られる心を生きているんですね。
Commented by zenkyu3 at 2018-08-23 16:31
> kkさん
物に執着する。心に執着する。心は執着するものに縛られて自由がなくなる。自由がなくなると心をコントロールできなくなってなにをしていいかがかわからなくなる。ある時は、求めて得られないといって、怒りを深く抱いて人や世間に八つ当りして、さまざまな罪を造る。人の仕返しや世間の制裁を受けて孤立し、内に後悔したりして、さらに苦しむ。そうかと思えば、思い通りになって有頂天になり、さらに貪欲を起こして奢り高ぶり、傍若無人の振る舞いをして人や世間の怨みを買い仕返しなども受けて、さらに苦しむ。自信があるように見えてもすぐ自信を失う。あれこれと忙しく心の持ち方を変えてみたりと、こんなことを日に何度も何度も繰り返して、毎日毎日こんなことを繰り返して、年がら年中同じようなことを繰り返していても、自分がなにをしているかに気づいていない。わかっているように思っているだけで、いつも心に鼻先をつかまれて家畜のように引摺り回されている。これがわたしたちではないか。善及
by zenkyu3 | 2018-08-23 05:15 | 教行信証のこころ | Comments(2)