七地沈空の難

 問うて曰わく、もしすなわち等しからずは、また何ぞ菩薩と言うことを得ん。ただ初地に登れば、もってようやく増進して、自然に当に仏と等しかるべし。何ぞ仮に上地の菩薩と等しと言うや。答えて曰わく、菩薩七地の中にして大寂滅を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんとす。その時にもし十方諸仏の神力加勧を得ずは、すなわち滅度して二乗と異なけん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、すなわちこの難なけん。このゆえに須らく畢竟平等と言うべし。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 初地に登れば、いずれ仏に等しい等覚の位に至るのに、なぜ、ことさらに七地以前と八地以上とに区別するのか、という問いが立てられています。思うに、八地以上の「法性生身の菩薩」と七地以前の「未証浄心の菩薩」との違いは、信の一念にいただいた智慧が自在にその働きを現し出しているかどうかの違いなのでしょう。初地の菩薩は「智慧」がなにかが感触としてわかった。確かに経験的にはわかったが、智慧がまだ自在に働き出していないから、本当の意味で、智慧の働き、つまり「願力自然」「他力」がどのようなものかがまだわかっていない。その信心は観念にとどまっていて、なにより「安心」がない。もし、念仏せずに、観念の悟りに満足してしまえば、智慧は働きを失って、その信仰はやがて哲学化する。「菩薩の死」です。信の一念に智慧を得たら、智慧を掘り下げるように、信の一念を思い出しながら、信の一念に立ち返り立ち返り念仏することが大切です。そうすれば「七地沈空の難」を越え、やがて念仏三昧が完成して菩薩八地の教化地に入る。すなわち「安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつる」という。

*以前の記事を一部加筆して再掲載しました。

 南無阿弥陀仏

Commented by ナナシ at 2018-08-21 07:15 x
法は躍動するおはたらきだと思います。唯佛独明了、ひたすら頂礼すべきものであります。自分がわかってしまったら、その程度のものに過ぎません。何一つわからないまま、ただ仰せをそのまま聞かせて頂くばかりです。しかし、法が身に浸透するのには時間がかかります。それを修道位と仰られているような気がいたします。繰り返し巻き返し信と念佛に尋ねていきます。一筋の光はか弱い灯であるけれども、必ず往生させずばおかないと南無阿弥陀佛と喚びづめに喚んで下さる。如来が心をかけて下さる。念佛三昧は如来が三昧でありましょう。南無阿弥陀佛
Commented by zenkyu3 at 2018-08-21 11:27
> ナナシさん
わたしが仏さまを憶念するのではなく、仏さまがわたしを憶念していてくださる。わたしが忘れているときも仏さまはわたしを忘れない。これが念仏三昧ということでしょう。常にということでしょう。わたしが念仏を忘れないのは仏さまが念仏を称えさせてくださっているからです。仏さまはわたしのことを一度も忘れたことがない。だから仏さまのことを不断光と申し上げる。わたしは仏さまに常に思われている。仏さまのお心の中に住まわせていただいているから念仏三昧というのでしょう。善及
by zenkyu3 | 2018-10-23 05:15 | 教行信証のこころ | Comments(2)