依釈段・道綽章(3)

 (原文)
 三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
 (読み方)
 三不三信の誨、慇懃にして、像末法滅、同じく悲引す。
 (正信偈-45)

 『高僧和讃』に云わく、「決定の信をえざるゆえ/信心不淳とのべたまう/如実修行相応は/信心ひとつにさだめたり」と。「三不信」は『論註』にある教えで、曇鸞の教えを受けて道綽は信心の相を「淳心・一心・相続心」と教えた。自力は自分の心を信仰している。自分の心をもって仏になりたい理想がある。しかし、自分の心を信じたいが、信じられないことは自分が一番よく知っている。わたしの心は嘘で、嘘の上に真実の信仰は成り立たない。知るべし。

 南無阿弥陀仏



Commented by 畑のかえる at 2018-06-09 06:19 x
ペットに例えると、思い通りのうちは可愛がるけれど、背けば捨てたくなる。
ペットにあらず、恋人だろうが何だろうが、果ては妻だろうが、親だろうが子だろうが、同じ心が蠢いている。
他人の心の中にはない、わたしの心の中に。
虫かごの中の虫を見るように自分の心を見るということは、このような自分の心を見て見ぬふりをせずに見ていくということでしょうか。
名聞利養勝他、良く思われたい(悪く思われたくない)、自分のものにしたい(失いたくない)、人に勝ちたい(負けたくない)という心の動きを見ていくということでしょうか。
この心に目が向くことは無明の闇に光が射すということでしょうか。
Commented by zenkyu3 at 2018-06-09 10:41
> 畑のかえるさん
今まで見えなかったものが見えてくるのは、自分の眼がよくなったのではなく、回りが明るくなってきたから見えるようになってきた。夜は見えなかったものが暁の光で回りの景色が見えてきた。眼がよくなったのではなく光のために見えてきた。自分の眼が見るようだが、実はそうではなく、光があるから見えるのだということ、こう気づくことが大切です。わたしが中心だった世界が仏が中心の世界になる。これが信仰における決定的な転換です。光は智慧を讃える言葉です。智慧は光をもって讃えられる。光は希望、光は救い、光が信仰です。仏は光、見えるようになったら、それは仏が見えるようにしてくださっている。だから、自分の心がわずかでも見えるようになったら、それは救われよとの仏のご催促です。あなたを救いたい願いがあなたにかけられている。善及
by zenkyu3 | 2018-06-08 05:57 | 正信偈の教え | Comments(2)