依釈段・曇鸞章(1)

 (原文)
 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
 (読み方)
 本師、曇鸞は、梁の天子常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる。
 (正信偈-37)

 『教行信証』に云わく、「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について、真実の教行信証あり」と。三祖・曇鸞(476-542)は洛陽で菩提流志に出会い、『観無量寿経』を授けられて念仏に帰し、『浄土論』の注釈『浄土論註』を著した。この書により浄土教思想が確立したのです。親鸞教学は曇鸞の「回向」の教えの上に成り立っています。それゆえ親鸞は曇鸞を「本師」「菩薩」と敬っているのです。

 南無阿弥陀仏


Commented by 畑のかえる at 2018-05-31 14:57 x
大経の巻下に「諸有衆生・聞其名号・信心歓喜・乃至一念・至心廻向・(略)」とあり、
親鸞聖人は、「至心に回向したまえり」との左訓を赤字で入れられたというお話を聞いております。
また、正信偈には、「回向」が3度表されています。
回向とは何か、大きな断崖がわたしを待ち受けているといった感じです。
仏さまに拝む前に仏さまから拝まれているというのが今の理解(体験ではなく)です。
この理解の下、ゆっくりと地を固めながら一歩一歩学んでまいりたいと思っています。
それでよいでしょうか?
・・・今日もありがとうございました。
Commented by zenkyu3 at 2018-05-31 20:04
> 畑のかえるさん
畑のかえるさんは「回向」という言葉に引っかかった。なにに引っかかるかは人によってみな違うのでしょうけれど、引っかかるには引っかかるだけの理由があるに違いない。理由はわからなくとも、そこを掘り下げていけば、なにかがわかる。聞法していると必ず疑問がわいてくる。考えて考えて、考えているうちに小さな気づきがあって、その都度、心境が新しく開けてくる。それが聞法ではないでしょうか。そんな風にして、いつもいつも仏さまのことを考えている。いつも仏さまのことを考えていると、だんだん仏さまのことがわかってくる。だんだん聞法になっていく。善及
Commented by 畑のかえる at 2018-06-04 05:52 x
『教行信証』に云わく、「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について、真実の教行信証あり」と。
これは耳にしたことのある一句です。親鸞聖人は、この証となる浄土教の経文を読まれ解説をされたのが『教行信証』で、その中の詩として正信偈が詠われているというようなことを聞いています。
そしてそのなかの「おうげんえこうゆたりーき しょうぎょうしーいんゆいしんじん」なのですね。
ただ文字づらを読むだけだった語句の意味がだんだんわかってきてありがたいことです。
今朝もありがとうございました。
Commented by zenkyu3 at 2018-06-04 11:01
> 畑のかえるさん
光があるから見える。見えるのは光があるからです。見えない人は見えていないということがわからない。苦しみを得てもなぜ苦しみを受けるかがわからない。苦しみがわからない。苦しみの原因がわからない。それが見えないということです。仏は光ですから見えたことが回向です。なにが見えるかというと自分の心が見える。煩悩が見える。煩悩の闇に光が入る。それを回向という。善及
Commented by 畑のかえる at 2018-06-04 22:38 x
虫かごの中の虫を見るが如くに、自らの心を眺めるということ、それが回向なのでしょうか・・・?
とにかく一歩一歩この道を進むのみです。
今夜もありがとうございました。
Commented by zenkyu3 at 2018-06-05 05:58
> 畑のかえるさん
仏さまから見たらわたしはどのように見えるのだろうか。わたしはこれだけでした。善及
by zenkyu3 | 2018-05-31 06:00 | 正信偈の教え | Comments(6)