依経段・釈迦章(9)

 (原文)
 一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願
 (読み方)
 一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、
 (正信偈-19)

 「釈迦章」は信心開発した行者の内面に開けてくる「さとりの心境」がどのようなものかを明らかにしている。信心とは仏のお心の中に「生まれる」のですから、それは経験しないとわからない。お聖教を読むだけの「畳の上の水練」では救いにはならない。「行」を信じる、南無阿弥陀仏を称えることが仏教だからです。ネット上で「このままでよかった」という記事を見たことがありますが、念仏も称えず、煩悩のままでいいなんて仏教はないのでしょう。

 南無阿弥陀仏


Commented by 畑のかえる at 2018-05-13 06:18 x
おはようございます。
朝、仏壇の周りで時間を持つようになって約3か月と半分が過ぎました。
お正信偈さんを、昭和31年のテープをデジタルにしたものを回しながら読んでいます。
終わりまで12分間ですが、我ながらよく続くものだと思います。
最近やや節回しが滑らかになりました。
そしてたまには気持ち良いとも思えるようになりました(不思議なことに)。
でも覚えられないのは残念です、年のせいでしょう。
今日もありがとうございました。
Commented by zenkyu3 at 2018-05-13 10:05
> 畑のかえるさん
年を取るといろんな衰えを覚えます。機械のようにいずれ壊れるのでしょう。身体の衰えとともに欲望も衰えてきますが、この身体を造っているものがなんなのかシンプルにわかるようになります。葉が落ちて枝がむき出しになるようなものです。身体は車のようなもので軽もあれば大型もトラックもある。故障の多い車もあれば長持ちする車もある。どちらにしろやがて捨てる。人生も終わってみれば食ってきただけのもので、どんな人生も少しばかりの喜びの火に手をかざしてぬくもりを取って生きてきたのではなかったでしょうか。死を前にして精算しきれないものを残さないようにと、老いの入り口で思っています。お念仏は仏さまにわたしを見ていただくことです。人に虚勢を張るのが世渡りですが仏さまには無用です。仏さまの前にいる時ぐらいは自分に嘘のないように暮らしたいものです。善及
by zenkyu3 | 2018-05-13 05:56 | 正信偈の教え | Comments(2)