帖外ブログ・其の十五

一、永遠から呼ぶ声がした。呼ぶ声のする方へと、ずっと歩いて来た。

二、なぜかはわからないが、この世には真実があると信じていた。誰かが知っていると。

三、仏さまから見たらわたしはどんな風に見えるのだろうか。これだけで信をいただいた。

四、わたしの信体験が確かな体験だったのかどうか、それを確かめるための三十年だった。

五、真実は気づく人しか気づかない。気づいてもわかるとは限らない。

六、信心は如来回向であるが、仏心を伝える善知識がおられて仏心がわたしに伝わる。

七、知っている世界の中にいるが、知らない世界の中では塵に等しい。

八、人の世は本当に騒々しいところで、みな、自分がなにをしているかを知らない。

九、みな、煩悩の賊に母屋を乗っ取られた挙げ句、賊の召し使いに成り下がって終わる。

十、死んだ先に浄土があるのではなく、過去現在未来を超えて後生がある。

南無阿弥陀仏

平成三十年三月十五日

善及記す

Commented by 畑のかえる at 2018-03-12 10:09 x
虫かごの中の虫を見るが如くに自分のこころを見る。善及さんは、つまるところ、このことがわかるように言葉を変えて毎日伝えてくださっていると受け取っています。今日の朝、仕事を終えてホッとしているこころ、仏壇の前で線香の煙を見ているときのこころ、ニュースを見て腹を立てているこころ、ちょっとそのように自分のこころから離れる一瞬が以前よりは増えた気がします。目くらめっぽうなやり方ですが、取りあえずしています。
また、念仏は弥陀の「わが名称えよ」のお声で、そのお声にわたしが「なむあみだぶつ」とお応えしているということでお称えしています。
さらに、念仏はご召喚、「帰ってこいよ」との由、わたしが理解してできることでもない(無義にて候)ゆえに、「帰ってこい」との思し召しとして、お念仏を朝の正坐の時間、また日常に取り入れてお称えしながら暮らしています。
今日もありがとうございました。
Commented by zenkyu3 at 2018-03-12 12:29
> 畑のかえるさん
念仏など称えなくとも世間は渡って行けるし、生きて行くにも不自由はない。おまけに念仏には現世利益がないから、現世利益の欲しい人は念仏は称えない。それなのになにがよくて念仏など称えるのか。理由などないというのが事実でしょう。さて、仏の呼び声のことですが、仏の呼び声とはなにか声が聞こえるということではなく、どうしてかはわからないけど念仏を称えている。理由はわからないけど念仏に引かれていく。これが仏の呼び声なのでしょう。理由などいらないのです。いつか「あぁ、そうだったのか」と親の心のありがたさが身に滲みてがわかる日が来るのです。それは頭で想像するものとはまったく違っているに違いない。親の心がわかったらもう親でしょう。もう仏でしょう。これにまさる喜びはない。善及
Commented by 畑のかえる at 2018-03-16 08:20 x
七、知っている世界の中にいるが、知らない世界の中では塵に等しい。
人は知識の及ぶ範囲に生きてはいるが、知識の及ばない世界にあってはチリと同じようなものだ・・・という意味に理解しました。
気になったので書かせてもらいましたが、いえいえ、あえてお答えはいらないのです。
ただ、毎日、読ませていただいています。
帖外ブログは読みやすいです。
従来の記事も難しいですが、やはり魂のどこかに沈殿するか、あるいはまた呼び起こされるかと思い、こちらも読ませていただいています。
今日もありがとうございました。
Commented by zenkyu3 at 2018-03-16 09:53
> 畑のかえるさん
この人はなにを見たのだろうか。なにを伝えようとしているのだろうかと、そんな風にわたしは仏教書を読んできました。たくさん本を読みましたが、悟りの薫りがする人はそうはいない。しかし、ちゃんといるんですね。善及
by zenkyu3 | 2018-03-15 07:29 | 帖外ブログ | Comments(4)